私の従兄は、今から約30年前、
四国の超が付くド田舎から、慶応義塾大学に入学しました。
それがどうした、と言われる方もいらっしゃるとは思います。
けれど、今ですら、ネットの繁栄や、テレビ、本などにより、「慶応」と言う言葉は知られていますが、
30年前の農業と漁業が主流の町では「けいおー?なにそれ?」が普通でした。
そんな町から、公立中学を卒業し、私立高校の寮生活を経て、慶應義塾大学に合格した従兄のお兄ちゃん。
プレジデントFamily(ファミリー)2019年07月号(2019夏号: わが子を慶應に入れる)
現在の彼は、東京の大手企業に就職し、今もその会社で勤めています。
そして、マンションを買い、専業主婦の奥さんと、3人の子どもたちを育てています。
かたや、私は、同じド田舎の地元の公立高校(偏差値43)を卒業。
学も教養もなく、汚い字で書いた履歴書で就職した企業はブラック企業ばかり。
結婚した夫も、大学は出たものの、三流大学出身で、職を転々とした人間です。
私たち夫婦は共にこう思いました。
「子どもには、同じ苦労をさせたくない」
ではどうするか、と考えたところ、
やはり、まずは学びを身に付けさせようと思いました。
それが、子どもにとって幸せかどうかは分かりませんが、
本人が何かをしたいというまで、とりあえず、まずは学びと考えました。
私は身近な成功例である、従兄を思い出しました。
あの、電車も通っていない、空港からも車で2時間かかる、
超が付くド田舎から、現代の誰もが知る、慶応義塾大学に入学した従兄。
彼と彼のお母さんである私の叔母がどんな生活をしていたか。
私はよく覚えています。なぜなら、
彼らの生活は小学生の私の目には とてもキラキラして映っていたからです。
従兄は男前でもなく地味でしたし、叔母も普通のおばさんでした。
家が際立ってお金持ちだったわけでもありません。
けれど、いつも何かに夢中で、頑張っていて、忙しそうで、
ハリのある生き生きとした生活をする彼らを、私はいつも興味津々で見ていました。
Contents
私の家は学ぶことを笑う家だった
超田舎から、慶応義塾大学に入学した従兄の話をしなければいけないのですが、
その前に少しだけ、私の家の話をさせてもらいます。
私の家は、従兄と同じ町で農業を営む、祖父母と両親と私の5人家族でした。
我が家では、こんな話をよくしていました。
「○○さんとこ、田んぼ売って、娘さんを大学に行かせたに、卒業して、ちっとばあ働いただけで結婚したんやとー」
「せっかく田んぼ売ったにねー(笑)」
「△△さんところ、お兄ちゃんを上の学校(大学)行かすんやと、
そのまま出ていかれたらどうするんやろうねぇ」
「田んぼまた売らなイカンなるで(笑)」
といった具合で、「百姓が学問をしてどうすんだべ」の世界が、昭和、いえ、すでに平成になっていた時代なのに、我が家ではあるあるの考えだったのです。
それを聞いていた私は、
「市内の高校、ましてや、大学なんて、行ってはいけない所なんだ」と思っていました。
それでも、当時ド田舎にできたばかりの公文に興味を持ち、「公文に行ってみたい」と言ったことはありますが、両親にはスルーされ、
お友達のリカちゃんがそろばんを習い始めたので「そろばん行ってみたい」というと、祖父母に「リカちゃんの家来か」と言われ、思ってもみない反論にただ茫然とし、
勉強する意味が何か分からないので、日々の学校の生活も楽しくありません。
お小遣い制にしてほしいとお願いしたこともありましたが、「いるものがあったら言いなさい」と
言われ、自分の小遣いでやりくりなどしたことはなく、
当時出始めたファミコンも「ほしい」と言っても、「そんなお金はない」と一蹴されました。
そのわりには、父は毎日酒を飲んで、母は自分の趣味の手芸のためにファミコンよりも高いミシンを買っていました。
けれど、私は「ずるい」と抗議しませんでした。
ただ、私が望むものは何もきいてもらえないんだと、
小学生の時点で色々な事をあきらめ、心を無にし、毎日をぼんやり過ごしている子どもでした。
田舎から慶応に行った従兄の家
従兄は、私の母の兄の長男で、4歳年上でした。
両親と妹の4人家族で、叔父は大工さんでした。
お金持ちではなかったとは思います。
けれど、兄妹2人を私立高校、私立大学に進学させ、寮生活をさせていました。
当時は高校無償化のシステムはまだ始まっていない時代ですし、
学費に、一人暮らしの生活費とかなりかかったはずです。
バブル期に蓄えができたとしても、叔父一人の大工仕事で、兄妹2人の学費を捻出するのは決して簡単な事ではなかったと思います。
叔母がよっぽどうまくやりくりしていたか、助成金制度をフル活用していたか、奨学金も利用したか、とにかく30年前のあの片田舎から、慶応義塾大学卒のエリートをよく生み出したものだと思います。
慶応の従兄はポピーをしていた
田舎の町でしたが、一応、公文教室もありました。
しかし、叔母が兄妹にさせていたのは、通信教育ポピーでした。
「月間ポピー」は、全国の小学校・中学校で採用されているドリルや資料集などの副教材を発行している「新学社」が作っています。
小学2年生で、月2,900円、小学6年生で月3,800円と、会費がとてもリーズナブルなのに驚きます。
どうやら、付録などの余分な物が入っていないため、低価格でおさえられているようです。
ポピーは、お子さまの成長・学習に本当に必要な教材をお届けしようと考えています。付録は会費に反映されるため、ポピーは余分な付録をつけず、会費を抑えています。
シンプルな教材で、学習に取り組みやすい。会費もリーズナブル。
だから、続けやすいのです。
引用 月間ポピー
現代で小2が2,900円なら、30年前はもっとお安かったのかもしれません。
従兄は普通に「勉強しなさい」と言われていた
叔母は、「ヒロくん、ポピーしなさいや~」と、よく声をかけていました。
よく偏差値の高い学校の生徒が、
「子どものころは勉強しなさいと言われたことがなかった」と言っていますが、
叔母は普通に「勉強しなさい」と言っていました。
当時ファミコンに夢中の従兄は、聞こえていないこともあり、何べんも「そろそろやめなさい」と言われ、
その横で私は「もう言うこと聞かんとおこられる」とハラハラしたこともありました。
○○君、○○ちゃんと呼ばれていた
叔母は、子ども達の事を、「くん」「ちゃん」付で呼んでいました。
3兄弟を灘、東大理Ⅲに合格させた、佐藤ママも、
「こどもは呼び捨てにせず、~ちゃんと付ける」と著書で語っています。愛情をもって呼びたかったからだそうです。
佐藤ママの子育てバイブル 三男一女東大理III合格! 学びの黄金ルール42
たしかに
「ヒロ君~ポピーしなさいやー」
「ヒロノブ、ポピーしなさいやー」
では、「ヒロ君」と呼ばれたほうが、「じゃあそろそろやろうかな」と一歩早く腰を上げたくなる気もします。
30年前は、今の様に育児本や、学習ハウトゥー本も少ない時代だったはずなのに、
兄妹二人とも、低学年からポピーをし、
叔母が必ずチェックをするという勉強習慣を付けていました。
私は彼らのその勉強スタイルがとても羨ましかったです。我が家の大人たちは「百姓が勉強したって田んぼ手放すだけ」という考え方だったので。
「子どもの内にちゃんと勉強しようね」という叔母のスタイルがとてもしっくりきました。
「私もお母さんと一緒に勉強したいな」と思ったこともあります。
けれど、私の母は「分数がわからない(小3の単元)」と、なぜか自慢げに言っていましたし、
私も無気力な小学生だったので、「一緒に勉強して」と頼む気は、残念ながら1ミリも芽生えませんでした。
- 従兄は小学校からポピーの通信教育をしていた。
- 叔母は「勉強しなさい」と促し、習慣づけさせていた。
- ○○君、○○ちゃん、と呼び、呼び捨てにすることは滅多になかった。
- 「子どもは勉強が大事」と、叔母は学びに寄り添っていた。
慶応の従兄は、ファミコンとビックリマンシールに夢中。漫画もたくさん読んでいた。
ファミコンとビックリマン
従兄は、当時発売したばかりのファミコンに夢中でした。
私もスーパーマリオブラザーズを初めてさせてもらって、とてつもなく興奮したのを覚えています。
彼はしょっちゅうテレビに向かって、ファミコンをしており、その脇には、ビックリマンのシールがたくさんありました。
重ねたシールは5センチほどあったと思います。
ピカピカした神様のシールを嬉しそうに並べている従兄を「楽しそうだなぁ」と思いながら、私は山積みになったビックリマンチョコをオヤツによばれていました。
当時のビックリマンは30円で、おそらく100個分はくだらないシールの分厚さだったと思います。
お小遣いだけでたまる量とは思えないので、叔母もなにかにつけ買ってあげていたのではないでしょうか。
マンガもたくさん読んでいた
漫画もたくさん部屋にありました。
コロコロコミック、ドラえもん。年齢が上がると、少年ジャンプ、こち亀、ジョジョ。
あと、私が「こんながあるんだあ」と思ったのは、歴史漫画です。
小学生だった従兄の部屋には、歴史漫画セットがドーンとありました。
セットで買うと今でも2万円近くするものを、ちゃんと叔母は買い与えていました。
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「大工の叔父の家はお金持ちではなかったはず」と前述しましたが、ひょっとしたら間違いだったかもしれません。実は田舎のセレブだったのか?と思える環境です。
そうでないとすれば、
叔父は、盆暮れ正月以外、自宅でほどんどお酒を飲まないと言っていました。
それに比べ、飲んだくれの私の父は、
半年で50万円の酒代の請求がきて、母が青ざめていたこともあります。
あの酒代が無ければ、私だってファミコンも、歴史漫画も、お小遣いも、ポピーもさせてもらえてたのかもしれません、タラレバと言ってもしょうがない話ですが。
一度だけ、大学の入試費用がかさむと叔母がボヤいていたこともあるので、
湯水の様にお金があったわけではないと思います。
田舎の隠れセレブか、ほんとうに慎ましく暮らし、子どもに必要なものはちゃんと与える主義だったのか、分かりませんが、
小学生の従兄は、ファミコンも、ビックリマンチョコも、コロコロコミックも歴史漫画セットも、
たくさんの好きなものに囲まれ、いつも夢中で楽しんでいる子どもでした。
- 従兄はファミコンに夢中。
- ビックリマンシールに夢中。
- コロコロコミック、ジャンプ、漫画も楽しんでいた。
- 歴史漫画はセットで購入されていた。
- 好きな物に囲まれ、いつも夢中で楽しんでいた。
慶応の従兄はスポーツもしていた
従兄は、剣道と野球をしていました。
目立った活躍は聞いたことが無かったので、運動が得意というわけではなかったようです。
従兄の住む家は、山の上の私の家とは違って、
保育園も、小学校も中学校も、徒歩5分の立地にあったので、
叔母はとにかく運動させるのが目的だったのかもしれません。
因みに、「東大生に聞いた小学校時代の習い事」のようなアンケートでは、
必ず上位3位にスイミングが入っていますが、
ド田舎には当然スイミングスクールなどはありませんので、従兄も私も、夏場の学校のプールか、川で泳いでいました。
もし、スイミングスクールに行くのを嫌がっているお子さんに悩むお母さんがいたら、
「夏場の遊びのプールだけでもいいじゃないですか、慶応ボーイは川で泳いでましたよ」
と、お話してあげたいです。
- 従兄は剣道と野球をしていた。
- 田舎にはスイミングスクールがなかったので
時々川で泳いでいた。
プレジデントFamily(ファミリー)2021年7月号(2021年夏号:【15周年特別版】結論! 伸ばす親の4つの共通点 東大生249人の小学生時代)
慶応の従兄の朝ごはん
従兄の朝ごはんを見て、「朝からこんなに食べるの?」と驚いたことがあります。
メニューは、ごはんとみそ汁と、
ワンプレートに、干物の焼き魚、野菜のおひたし、目玉焼き、煮物がモリッと乗せられていたからです。
まるでアスリートの朝ごはんのようでした。
従兄の体形は細身でしたので驚きました。
最近40代になって感じるのは、野菜やたんぱく質をきちんと食べる日が続くと、
体も楽で、頭もすっきりクリアになります。
若い時は、野菜をたくさん食べたからって、そんなふうに感じたことはなかったのですが、
人生の折り返し付近に来ると、若い細胞だけでは補えなくなり、口から入ってくる栄養素を素直に取り込み活用している気がします。
やはり、バランスの良い食事をすることは、
若くても、子どもでも、脳や身体の活性化につながっているんだろうなとしみじみ思います。
しかし、私が今、そのてんこ盛り朝ごはんを真似ようものなら、エンゲル係数が上がりすぎて、家計は火の車になりそうです。
家の畑で取れた野菜と、安くで買った魚を、軒下で干物にできる、田舎の生活だから成せる技だと思います。
あのメニューを朝早くから用意した叔母には敬服ですが。
- 従兄の朝ごはんは、野菜とタンパク質が
てんこもりだった。
慶応の従兄は、小学校からマイルームを与えられていた
従兄は、小学校低学年のうちから、自分の部屋がありました。
本棚には大好きな漫画や図鑑が並べられ、勉強机に、部活の道具、自分の物しかない空間があるのは、子どもにとってはなんだかお兄さんになった気分になるのではないでしょうか。
私は高校まで、自分の部屋、と言うものがなかったので、それをとても羨ましく思いました。
現在、小2の我が子に、「君の部屋だよ」と一応決めてはいるのですが、
寝るのは私の部屋ですし、勉強もリビングでするので、子ども部屋を使うことはほぼありません。低学年の息子には不必要だったとは思います。
ひょっとしたら従兄たちも、部屋を物置にしていただけかもしれませんが、
自己肯定感を育てるには良い環境だったのではないかと想像します。
- 従兄は、自分の空間を持っていた。
慶応の従兄の家は片付いていたか?そうでもなかった
片付いた家のほうが、頭がすっきりし、集中力も上がるといいます。
確かにそうかもしれません。
では、従兄の家がスッキリ片付いていたかというと、そうでもなく、物の多い家でした。
でも、それが当時の普通の家で、どこの家も、服や物が家に溢れていました。
私たちの親世代は、戦後の物がない時代の親に育てられた子ども達なので、
物を捨てることがあまりできない方が多いです。
収納術が流行った時代もありましたが、今では断捨離を経て、ミニマリストという「持たない暮らし」の方々も増えています。
ミニマリストさんたちからすれば、従兄の育った家も、私の家も、「物が多すぎ!」と卒倒するかもしれません。
- 物の多い家でもエリートは育つ。
慶応の従兄の家は家族会議があった
叔母は、自分たちの生活を披露したり、良い学校に合格したことを自慢するようなことはありませんでしたが、
「家族会議をする」というのはよく聞きました。
想像ですが、高校進学の時から、進路の事、就職の事、他にも困ったことや、これからのことなど、家族4人で膝を付き合わせて話合ったのではないでしょうか。
従兄がお酒を飲める年齢になってから、
盆暮れ正月に親戚の叔父たちが、従兄を飲みに引っ張り出すものですから、
叔母から「家族会議をする暇がない」とクレームもあったことがあります。
叔母は昔から、きちんと子ども達と向き合い、話を聞く姿勢をとっていました。「家族会議」という時間をわざわざ作り、意見を聞いてくれる場を設けてもらうことで、従兄たちも
「自分は信頼されて、大切にしてもらえている」と実感できたのではないでしょうか。
- 家族会議を大切にしていた。
慶応の従兄は、ド田舎の小さな塾から、偏差値63の高校に合格した
従兄は中学から、地元の小さな塾に通い、
高校は土佐高校という偏差値63の高校に合格しました。
当時、私たちの町の付近には、
その小さな個人塾しかありませんでした。
因みに私の同級生で中学受験をした3人もその塾でから合格したそうです。その同級生の家は、
消防士と看護師、遠洋漁業、材木店で、百姓の家よりはお金持ちだったはずです。
しかし、 「教育ママ」という言葉が悪口風に言われる時代に、子どものために 中学受験をさせようときちんと考えて、頑張っていた親は、田舎にだっていたのです。
がんばった親御さん、尊敬します。
塾は、男の先生が一人で指導する、小さな小さな塾でした。
偏差値36の高校に受験する子どもも受け入れていたそうで、
一人で一体どんな指導をしていたのでしょうか。
どんな生徒も受け入れる、
田舎のドラゴン桜の桜木先生だったのかも。
- 大手でもない、小さな個人塾からも
難関中学、高校に合格する人はいる。
慶応の従兄は、リア充な小学生だった
学校から帰ったら、
ファミコン、漫画、ビックリマンシールを楽しみ、
叔母に勉強を促されながらも、ポピーと宿題をこなし、
週に1,2回、剣道と野球に通う、
やらなけれないけない事も、遊びも一生懸命な従兄。
彼はまさに、今でいう「リア充」な小学生でした 。
世の中には、「習い事や、勉強ばかりで、今の子はかわいそう」
という意見もありますが、そんなことはないと思います。
私は、目標もなく、やるべきこともなく、ただボーっと生きるのは楽しくありませんでした。
もし仮に、30年前の我が家に、ファミコンがあったとしても、やはりそれだけではつまらなかったと思います。どんなに楽しいゲームでも、いずれ飽きるからです。
従兄は、「今日は剣道やから、宿題とポピーしときなさいや」
と言われて、「めんどくさいな」と思ったこともあったかもしれません。
けれど、1日のやるべきことを終わらせ、スポーツで仲間と汗を流し、
眠る前に好きな漫画を読み、適度な疲労で朝までぐっすり。
そんなメリハリのある生活の方がずっと楽しいのではないでしょうか。
きっと、彼はその生活を楽しんでいました。
でないと、私の目にキラキラ映るはずが無いのですから。
キラキラ、生き生きとした子どもに導きたい。
従兄は、本当に頑張ったと思います。
偏差値63の高校に合格し、一浪して、慶応義塾大学に入学。
お金もかかることは理解していたでしょうから、プレッシャーもあったと思います。
東京の生活だって、電車や人の多さに、慣れないうちは大変だったと聞きました。
それから、慶応義塾大学自体が、やはりお金持ちの子どもの多い学校です。格差を感じる場面だって多々あったのではないでしょうか。
従兄は自分の結婚式の時に、
「尊敬する父と母のような、優しくて、暖かい家庭を作りたい」と言っていました。
何もない、あの田舎から、
インターネットもなく、情報も少ない時代に、
子どもに必要なものを選び、与え、経験させ、子どもが幸せだと言える人生に繋げた叔父と叔母は本当にすごいと思います。
今我が子は小学2年生です。
この世に生まれて、まだたったの8年の彼が、
やりたいことを見つけて、それに一直線向かうのはとても難しいことです。
学も教養もない私たち親ですが、彼が自分で選択できるようになるまで、手を引き、導いてあげることが必要だと思います。
叔父と叔母の様に
我が子を導いてあげたいです。
もし、今、お子さんのこれからの学びや進学のことに悩んでいる方がいらっしゃったら、
30数年前の、超超ド田舎からだって、親の頑張りで子どもを良い学校に行かせることができる人はいたのですから、チャレンジしてみるのも、きっと楽しいのではないでしょうか?
何もしないのは、何にもならないですが、
何かしてみたら、何かが起こります。
そして、頑張ることはキラキラした生き方につながると思います。
私自身もまだ、8歳の子どもの手を握って進み始めたところですが、
遊びも、学びも一生懸命楽しませ、生き生きとした人生を歩ませてあげたいです。
最後に
最後に、私の両親は変わった人だったかもしれません。
けれども、5人兄姉の末っ子に生まれた彼らは、
戦争で大変な思いをした家族の、平和と幸せの象徴だったのだと思います。
苦労はさせられましたが、もう親の文句はネタ程度にしておいて、
親には穏やかに長生きしてほしいと心から思っています。
長生きしてほしいです。
長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
以上で、「超絶ド田舎から慶応を卒業して従兄の話」は終わりです。そして、そんな従兄と叔母に影響され、息子の中学受験を目指している私のブログtororo2021も更新しています。
偏差値40の公立高校出身の母の奮闘っぷり、是非ご覧ください。
最後まで読んで下さってありがとうございました。